高玉城(郡山市磐梯熱海町)
伊達政宗が葦名攻略の前段階として攻め落とした城として有名である。
城は磐越自動車道 磐梯熱海IC西側の山である。
ICから県道24号線に接続する道路があるが、その道路の延長上にある山が城址である。
県道に入るとすぐ西側に「高玉城跡入り口」の案内がある。この案内の場所、少し広くなっているので車で来るなら、この場所に留めるのが良い。
ここから50mほど西に行くと、朽ちかけた木柱の案内がある。これは見逃す可能性があるので注意。
ここを用水路に沿って入ると、民家の裏に赤い鳥居がある。
これが城址に建つ「愛宕神社」の鳥居である。後はこの参道を登れば良い。
しかし、この参道の石段、凄く急である。鳥居から40mほど登ると本郭であるが、途中に3つほどの帯曲輪がある。
曲輪間の高度差は7〜10mもある。切岸を鋭くさせるための帯曲輪であろう。
曲輪内部は竹が生えていて、見通しが悪いが、東側の山沿いを覆っているらしい。
本郭に建つ愛宕神社の社殿は本郭東の腰曲輪に建っているようであり、本郭側に土塁がある。
本郭は東西100m、南北25mほどの「バナナ型」をしており、西より中央に高さ2mほどの土塁がある。
その西側には25m四方のスペースがある。ここが本来の本郭部であろう。西側にも低く土塁があり、北に下りる虎口がある。
本郭の西側は山に続くが、尾根を二重堀切で豪快に遮断する。1本目は本郭から6mほど下にあり、2本目はさらに6mほど下にある。南北に竪堀が豪快に下る。
ここが城の西端であろう。一方、本郭から南に派生する尾根に高さ4,5mおきに曲輪が4つほどある。
かなり大きな曲輪であり、突き出しは本郭直下の曲輪で30mほど、他は15〜20mほどある。
大手はこの方面であろうか?(日本城郭大系では、二重堀切から登る道を大手道としている。)

応永元年(1394年)源 義家の子孫、顕実石筵冠者太郎左衛門尉城を築いたという。
戦国時代になり、天文元年(1532年)二本松の畠山氏の領土の西を守る城として高玉を領していた畠山一族(高玉氏は安積伊東氏一族ともいう。)高玉氏が戦国城郭に拡張した。
しかし、この頃、高玉氏は葦名氏に鞍替えしたともいう。
天文20年(1551)高玉氏5代目、高玉紀伊守頼継(常頼の父)の時代には高玉、石筵、横川を治めていたという記録がある。
主家二本松畠山氏は伊達政宗に攻略されると、伊達政宗は、畠山氏旧臣の高玉近江守にこの地を与えたとも言う。
しかし、高玉常頼は伊達氏を嫌い、葦名氏に付いたままこの地を支配していたようである。
6代目高玉太郎左衛門常頼の時、葦名氏の混乱に乗じて葦名氏領を狙う伊達政宗に天正17年5月5日(1589年)攻撃され、常頼と女婿の荒井新兵衛は奮戦したが、大激戦を演じ奮戦するが、城主以下60名全員が討死し落城したといわれる。
ここでも政宗は残された全ての将士を撫切りにせよと命じ、民百姓、女子供300人から牛馬に至るまで惨殺したという。
しかし、常頼の3歳になる娘は乳母の命乞いにより助けられ、親族の高倉城主高倉近江(伊東助九郎)のもとで育まれた。
現在高倉の常円寺に残る常頼夫妻の供養碑を建てたのがこの娘とされている。
この城に来たのは3月の16時過ぎである。さすがにこの時間だと、日が暮れかかりつつある。
林の中でフラッシュを使わず写真を撮るのはうす暗くて難しい。
当然、周りに人がいる訳がない。大勢の人が死んだ誰もいない山城は不気味である。足早に駆け回り、直ぐに退散。見落とし多いかも?

東側から見た城址 @城の上り口、愛宕神社の鳥居。 A 神社への急な登り道。
B本郭東に建つ神社社殿 C 本郭中央やや西にある土塁。 D 本郭北端にある虎口
E 西端の堀切 F 本郭南下の曲輪 G 本郭東下の帯曲輪

安子ヶ島城(郡山市磐梯熱海町安子島)
磐越西線安子ヶ島駅の西側、安子ヶ島小学校も城域であった広大な城であった。
城は南から五百川の流れる低地に張り出した台地縁に立地し、五百川の低地からの比高は20m程度である。
安子ヶ島小学校のある台地との間に深い谷があり、おそらく天然の空堀の役目を果たしていたのであろう。
主要部は安子ヶ島小学校の西側にあり、現在田んぼになっている。
一見、何もない田んぼであるが、これは耕地整理したものであり、かつては東西に曲輪を並べた連郭式の城であったらしい。
現在、城址碑の建つ部分は堀だったようである。
城主の安子島氏は、頼朝の奥州征伐でこの地を領土に得た工藤祐経の子孫で、安積郡に勢力を張った安積伊東氏の一族である。
伊東一族は結束できないまま、戦国大名には成長できず、畠山氏や葦名氏にしたがっていたようである。
安子島氏もはじめは畠山氏に、その後は葦名氏にしたがっていた。
天正14年(1586)二本松城の畠山氏を滅ぼした伊達政宗は、葦名家中の義広入嗣を巡るゴタゴタに乗じて、天正17年(1589)侵略を開始する。
中通りから会津への通路となるこの安子島城が真っ先に標的となり、伊達氏の軍に囲まれた安子島治部省輔らは、防衛を諦め開城し、会津に退去し廃城になったという。

城址碑、遺構はすでにない。 東側の谷は天然の堀だろう。